2019年04月28日
レイテ島リモン峠遭遇戦①
どうもPHです
ミリブロだしサバゲーのことだけじゃなくてたまには戦史を扱うのもいいよね!
ってことでサバゲーネタもなかったし仕事で駐屯地から出られないから暇過ぎて書いてみた。やる気が出たら今後もちょこちょこ書いてみようかな…
ということで手始めに遭遇戦のお話!
【プロローグ】
レイテ決戦において打撃兵団としてオルモックからカリガラに向かった1師団は、リモン峠を中心とする地域で、米軍24師団と遭遇戦を惹起した。
一般的に情報や通信の発達した現代戦では師団や連隊などの大部隊での遭遇戦は起こり難いと思われやすいが、戦場の広域立体化、戦闘経過の迅速流動化から彼我の予期せぬ戦闘の可能性が増大すると予想される。
現に大東亜戦争後の朝鮮・中近東・東南アジアの諸動乱にて随所に発生している。
この事から、ここで紹介するリモン峠での1師団の遭遇戦は貴重な戦訓であろう。
以下、主に1師団の先頭であった57連隊の2大隊と3大隊、特に最初に敵と遭遇した3大隊の戦闘に焦点をあて、遭遇戦がどのように起き、どのような経過を見せるのか、そしてどの様な教訓を学びとることができるかを綴っていく。
【戦地へ向かう】
S19.10月、レイテ決戦の為に35軍指揮下で決戦兵団としてレイテに乗り込んだ1師団(1連隊・49連隊・57連隊)はこの地に来る前は対ソ連の訓練に励み、装備も良好で精鋭師団と見られていたが、師団の一部のノモンハン事件に参加した部隊を除き大部分は実戦経験は無く、2ヵ月ほど前から上陸訓練を行っていた。

10/19、約13000名の将兵は輸送船4隻でフィリピンのマニラに向かい、26日夜にコレヒドール沖に着いた。
この時師団長は初めて米軍のレイテ上陸を知り、「1師団は決戦兵団として35軍の指揮下に入り、レイテ上陸の為の準備を整えるように」と命ぜられた。
そこから30日まで戦闘に必要な資材の積み込み、不要品の陸揚げ、現地での配属部隊の掌握や乗船や空海援護の調整で将兵は準備に大忙しであった。
現地配属部隊は戦車2個中隊(95式軽戦車×20)、その他トラックも補給された。
満州から連れてきた馬もおり、機動力はかなりあった。

〔九五式軽戦車、大東亜戦争に投入した頃には
武装・装甲共に貧弱だったが稼働率は高く、貴重な機甲戦力として奮闘した。〕

〔軽戦車と「九四式六輪自動貨車」、ベースは
いすゞのトラック、今も昔も軍用トラックは
いすゞ。〕
31日朝出港、輸送船4隻は当時としては優秀な高速輸送船(金華山丸、能登丸、香椎丸、高津丸)であった。
海は海防艦(占守型占守、鵜来型沖縄、一号型11号13号)が直接の護衛、駆逐艦が間接の護衛に就き、空は零戦や疾風が護り、十分な警戒振りだった。
決戦兵団への期待の程を知ることができる。

〔能登丸、他の金華山丸・香椎丸共に民間からの徴用船〕

〔甲(小)型特種船「高津丸」、民間の5000t破氷船改造の陸軍が運用した揚陸艦〕

〔占守型(甲型)「占守」シーレーン防衛・沿岸警備用。所謂フリゲート〕

〔鵜来型(甲型)画像は「宇久」、甲型の中で生産性・攻撃力等のバランスがもっともとれていた〕

〔一号型(丙型)画像は「17号」、甲型から更に小型・簡略化された。所謂コルベット〕

〔零式艦上戦闘機22型(レイテ島の戦いで主に使われたのは52型?)、海軍は後継機開発の遅れから改良を重ね終戦まで使い続けることになる〕

〔四式戦闘機「疾風」、陸軍から大東亜決戦機として期待され、米軍からは「日本最優秀戦闘機」と称される〕
11/1、夕方に予定上陸地点のオルモックに到着。
当時、ある少佐がマニラからオルモックまでについて次のような回想を述べている。
「29日マニラ港で準備に忙殺されてた時、ひどい空襲を受けた。
台湾沖航空戦の結果、米海空軍はかなりやられて当分出撃できないだろうと噂されていたのに、ハテ?と気になった。
ある参謀は『レイテは10日もあれば片付くから軍用行李(ぐんようこうり:私物品や不要な備品の収納容器)なんか残置せよ』と言っていた。
コレヒドール沖から海空の援護があり、途中敵機が来たが友軍機が追払った。
気持ちの良い護衛振りで、これなら勝てると自身が溢れてきた。
隊員の士気も極めて高揚していた。」
当時(10月末)レイテにいた16師団は組織的抵抗続行不能、30師団等からの増援の41連隊はカリガラ付近で強敵に遭遇し押され気味であったが、この実情は1師団将兵は勿論、35軍本部も敵の先頭が既にカリガラまで進出していると知らなかったのである。
これは16師団と35軍の連絡が不十分で、16師団の10/26発信の電報を11/3に入手しているといった状況であった。

オルモックに着いた1師団はその夜のうちに揚陸作業を進め、翌2日に敵機の空襲を受け輸送船(能登丸)1隻沈没。
しかし大部分の人員資材は既に上陸しいたので、師団全体として見ればまずまず成功であった。
これは当時、日米両軍間で航空戦が行われており、米軍もこれに忙殺され、十分な航空力を1師団の上陸破砕に適時集中指向することができなかったためである。
しかし、ここで付加説明しておかねばならないことがある。
それはマニラへの航行途中、ルソン島北部に各歩兵連隊の1個大隊を揚陸残置したことである。
したがってオルモック上陸から当分の間2個大隊であった。
しかも後述するように、この当分の間に大勢が決してしまったのである。
貴重な戦力である各歩兵連隊の1個大隊がルソン北部に残置され、重要な時期に間に合わなかったのはなぜか。
これは1師団長の独断で、レイテ島やその付近は16師団と30師団がおり、「1師団はルソン島駐留だろう」と信じ、被制空権下の航行による損害を少しでも軽減し、且つ新任務に即応しやすい態勢を早くとり得るようにという考えからであった。
ところがその2日後「決戦兵団としてレイテに上陸」の任務が初めて明示されたのである。
【戦闘経過~目標カリガラ平地~】
揚陸を終えた1師団に与えられた任務は「1師団は速やかにカリガラ付近(16師団左翼)に進出し敵の右翼に対する攻撃を準備すべし」というものであった。
捜索連隊の約200名が直ちに出発先行した。

11/2夕、1師団は4個梯団(57連隊・49連隊・1連隊・野砲兵第1連隊の順)となってカリガラ(発進点から約45km、中心部へは約50km)へ徒歩行進を開始した。
行進要領は「敵と接触の恐れが少ない場合」のそれであり、当初4列縦隊で進んだ。
勿論戦術編組はとっていなかった。
第1梯団となった57連隊は3大隊・連隊本部・2大隊・その他諸隊の順(1大隊はルソン残置)で前進した。
師団長は捜索連隊の後方をトラックで先行していた。
この任務受領に際し師団長が「カリガラに出るまでに敵に遭遇したらどうするのか」と質問したのに対して軍参謀長は「そこは考慮していない」と答えたという。
これは前述のように情報速達が十分でないため、35軍は16師団と先遣された諸隊の健闘により、カリガラ平地は完全に確保されているものと信じていたからである。
部隊がこのような行進隊形をとったのはこのためであった。
部隊はカリガラに急いだ。
道路はほぼ1車線半程度で、広いオルモック平野の東辺に沿ってだらだらした上りが真っ直ぐ北に伸びている。
11/3朝、先頭梯団の57連隊はバレンシア(発進点から約12km)に到着し、大休止の後、更に行進を続けた。
よく晴れた空に灼熱の太陽が輝き、兵は炎天下に汗を絞った。
この日初めて空襲を受けた。
数十機のP-38による対地攻撃であり、直ちに応戦、2個機関銃中隊の対空射撃により1機撃墜し、士気はかえって高揚した。
57連隊には損害はなかったが、最後尾の1野砲連隊やトラックはかなり損害を出した。
当時野砲1連隊の第10中隊長は、この空襲につきて次のように回想している。
「たしかP-38であったと思う。
行進を開始して間もなくのところで、対地攻撃を受けトラックの大半を焼かれ、兵員は私の中隊だけで20名前後やられた。
たぶん20mm機関砲の仕業と思うが、鉄帽をぶちぬかれて顔半分なくなったり、足をやられた者は片方はなくなりもう片方は半分肉がそぎ取られている。
凄惨なものであった。
今まで空中勢力は彼我伯仲と思えたが、これ以降、目に見えて敵の攻撃が増してきたように思う」
57連隊長は「正直なところ徹底した対空警戒観念に乏しかった。
組織的な対空監視哨の設置、ラッパ号令による伝達等、やらねばならぬことがあったが、私も大隊長も処置していなかった」と回顧している。

〔P-38「ライトニング」、日本軍からはペロハチやらメザシやら双胴の悪魔と呼ばれる〕

〔九二式重機関銃、日本陸軍の運用は、1個機関銃分隊に重機関銃1挺と人員10名ほどで弾薬2000発以上、弾薬分隊の補給を合わせて9000発以上と、自衛隊と比較してもかなりの火力と継戦能力がある〕
57連隊は引き続き前進を続けていた。
先行してリモン峠(発進点から約40km)に到着した時から同峠で敵の砲撃を受けていた師団長から昼過ぎ「57連隊長は歩兵砲1個小隊をもって速やかにリモンに前進せよ」という指示と共に迎えのトラックが1両やって来た。
連隊作戦主任は「確かに歩兵砲1個小隊か」と念を押したが、間違いないと言う。
直ちに大隊砲小隊長と大隊砲1門、それを操作する兵5~6名と57連隊長・連隊作戦主任・副官等が乗り込み先行した。
途中、三々五々後退して来る負傷者にであった。
41連隊の兵であり、この連隊はレイテに敵が上陸した直後、在ミンダナオ等の30師団から増援として送り込まれた連隊である。
連隊作戦主任は「これは容易ならぬ事態がカリガラ付近で起きているのではないか」と緊張と驚きに身が引き締まる思いがした。
先行した大隊砲と連隊長の一行がリモン峠に到着したのは3日午後遅くであった。
師団長はリモン峠の南側で待ちかねていた。
「私は歩兵を1個小隊、と言ったが大隊砲か?」と師団長は言う。
連隊作戦主任が「これは申し訳ないことをしました」と詫びた。
師団長にしてみれば歩兵でリモン峠を一刻も早く固めたかったのである。
それは既にマスガナス付近に敵が進出しており、この峠を突破されると1師団の任務達成は困難となるからである。
リモン峠の鞍部はひょうこう150m程度であるが、頂上からはカリガラ湾が一望でき、戦場の要所であった。
ここを敵に先取られると敵はカリガラ湾沿岸の確保を確実にし、またオルモックに上陸北進しつつある日本軍を撃破するにも極めて有利な態勢になる。
師団長は57連隊長に対し「速やかにこの稜線(リモン峠)に兵力を集結し前進中の敵を撃破すること」と命じた。
そして自ら経験した米軍砲兵の物凄さについて語り、「歩兵は昼間行動するな、対砲兵戦はするな、壕を必ず掘らせよ」と指導した後、師団主力へ向けて南下した。
現地に残った57連隊長は地形偵察を行った。
稜線の頂上は草原であるが身の丈より高い萱が生えており前方はよく見えなかった。
斜面には雨溝がありその上方は灌木が密生している。
マスナガスへ向かう北斜面はかなり急で錯雑した地形のようであり、戦車の行動は道路以外は困難と判断された。
夕闇が迫ってきたので、連隊長は地形偵察を止め、リモン部落から少し南へ下った一軒屋に入り部隊の到着を待った。

〔九二式歩兵砲、口径70mm、歩兵大隊の砲小隊で運用され大隊砲と呼ばれた。また、命中精度が低くかったことから「大体(狙った所に当たる)砲」と親しまれた〕

3日夜リモン峠を押さえていたのは独立速射砲第20大隊の60名、捜索連隊の津田隊60名、16師団の20名、1師団57連隊の大隊砲1門であった。
当時米軍はどんな状況にあったのだろうか。
1師団に最も近く進出していたのは米24師団34連隊の第3大隊であり、マスナガス(米軍はピナポアンと呼称)を越えて1.5kmの地点にいた。
これはリモン峠(米軍は首折稜線-ブレイクネックリッジ-と呼称)への登り口の僅か200m手前であり、ここで野営していた。
この方面へ進撃して来た米24師団の34連隊は上陸以来、最も激戦を経験した連隊で、死傷も多く兵は疲れており、ここら辺りで交代の必要があるため待機していた。

【戦闘経過~戦闘準備~】

11/4朝からリモン部落南方の連隊本部の位置に各大隊が逐次到着してきた。
連隊作戦主任は、部隊の掌握・区署・戦闘準備の指示等に忙殺された。
逐次到着した各部隊を連隊本部付近にとりあえず集結配置した。
しかし幸いにもこの日、米軍の圧迫は大したことなかった。
これは先頭連隊である米34連隊の主力がカポーガンからマスガナスに向かって推進されていたものと推察される。
また我が方も4日はリモン峠の要点は捜索連隊津田隊等に任せたまま57連隊は集結に1日を費やしている。
なぜ一刻も早く逐次到着する部隊をリモン峠に注ぎ込まなかったのかというと、これは猛暑と敵機の妨害により行進長経が延びてしまったためである。
こうなったのは敵情捜索の不十分なためリモン峠の北麓には既に米24師団の先頭部隊が進出しているということが判らず、緊迫感がないため依然として「敵と接触の恐れが少ない場合の行進」という気持ちが強かったからである。
当時、米第6軍司令官クルーガー中将は、5・6日は34連隊と21連隊の交代・偵察・兵站準備に費やし、7日から本格的な攻撃開始を考えていたという。
もし、この4日に米軍が有力な部隊をリモン峠に進めていたら、この要点は敵に委ねざるを得なかったかも知れない。
この日は我にとって幸運な日であり、嵐の前の静けさともいうべき1日であった。
次回
【戦闘経過~リモン峠先取~】
【戦闘経過~勝利の栄光は我が頭上に~】
お楽しみに!
ミリブロだしサバゲーのことだけじゃなくてたまには戦史を扱うのもいいよね!
ってことでサバゲーネタもなかったし仕事で駐屯地から出られないから暇過ぎて書いてみた。やる気が出たら今後もちょこちょこ書いてみようかな…
ということで手始めに遭遇戦のお話!
【プロローグ】
レイテ決戦において打撃兵団としてオルモックからカリガラに向かった1師団は、リモン峠を中心とする地域で、米軍24師団と遭遇戦を惹起した。
一般的に情報や通信の発達した現代戦では師団や連隊などの大部隊での遭遇戦は起こり難いと思われやすいが、戦場の広域立体化、戦闘経過の迅速流動化から彼我の予期せぬ戦闘の可能性が増大すると予想される。
現に大東亜戦争後の朝鮮・中近東・東南アジアの諸動乱にて随所に発生している。
この事から、ここで紹介するリモン峠での1師団の遭遇戦は貴重な戦訓であろう。
以下、主に1師団の先頭であった57連隊の2大隊と3大隊、特に最初に敵と遭遇した3大隊の戦闘に焦点をあて、遭遇戦がどのように起き、どのような経過を見せるのか、そしてどの様な教訓を学びとることができるかを綴っていく。
【戦地へ向かう】
S19.10月、レイテ決戦の為に35軍指揮下で決戦兵団としてレイテに乗り込んだ1師団(1連隊・49連隊・57連隊)はこの地に来る前は対ソ連の訓練に励み、装備も良好で精鋭師団と見られていたが、師団の一部のノモンハン事件に参加した部隊を除き大部分は実戦経験は無く、2ヵ月ほど前から上陸訓練を行っていた。

10/19、約13000名の将兵は輸送船4隻でフィリピンのマニラに向かい、26日夜にコレヒドール沖に着いた。
この時師団長は初めて米軍のレイテ上陸を知り、「1師団は決戦兵団として35軍の指揮下に入り、レイテ上陸の為の準備を整えるように」と命ぜられた。
そこから30日まで戦闘に必要な資材の積み込み、不要品の陸揚げ、現地での配属部隊の掌握や乗船や空海援護の調整で将兵は準備に大忙しであった。
現地配属部隊は戦車2個中隊(95式軽戦車×20)、その他トラックも補給された。
満州から連れてきた馬もおり、機動力はかなりあった。

〔九五式軽戦車、大東亜戦争に投入した頃には
武装・装甲共に貧弱だったが稼働率は高く、貴重な機甲戦力として奮闘した。〕

〔軽戦車と「九四式六輪自動貨車」、ベースは
いすゞのトラック、今も昔も軍用トラックは
いすゞ。〕
31日朝出港、輸送船4隻は当時としては優秀な高速輸送船(金華山丸、能登丸、香椎丸、高津丸)であった。
海は海防艦(占守型占守、鵜来型沖縄、一号型11号13号)が直接の護衛、駆逐艦が間接の護衛に就き、空は零戦や疾風が護り、十分な警戒振りだった。
決戦兵団への期待の程を知ることができる。

〔能登丸、他の金華山丸・香椎丸共に民間からの徴用船〕

〔甲(小)型特種船「高津丸」、民間の5000t破氷船改造の陸軍が運用した揚陸艦〕

〔占守型(甲型)「占守」シーレーン防衛・沿岸警備用。所謂フリゲート〕

〔鵜来型(甲型)画像は「宇久」、甲型の中で生産性・攻撃力等のバランスがもっともとれていた〕

〔一号型(丙型)画像は「17号」、甲型から更に小型・簡略化された。所謂コルベット〕

〔零式艦上戦闘機22型(レイテ島の戦いで主に使われたのは52型?)、海軍は後継機開発の遅れから改良を重ね終戦まで使い続けることになる〕

〔四式戦闘機「疾風」、陸軍から大東亜決戦機として期待され、米軍からは「日本最優秀戦闘機」と称される〕
11/1、夕方に予定上陸地点のオルモックに到着。
当時、ある少佐がマニラからオルモックまでについて次のような回想を述べている。
「29日マニラ港で準備に忙殺されてた時、ひどい空襲を受けた。
台湾沖航空戦の結果、米海空軍はかなりやられて当分出撃できないだろうと噂されていたのに、ハテ?と気になった。
ある参謀は『レイテは10日もあれば片付くから軍用行李(ぐんようこうり:私物品や不要な備品の収納容器)なんか残置せよ』と言っていた。
コレヒドール沖から海空の援護があり、途中敵機が来たが友軍機が追払った。
気持ちの良い護衛振りで、これなら勝てると自身が溢れてきた。
隊員の士気も極めて高揚していた。」
当時(10月末)レイテにいた16師団は組織的抵抗続行不能、30師団等からの増援の41連隊はカリガラ付近で強敵に遭遇し押され気味であったが、この実情は1師団将兵は勿論、35軍本部も敵の先頭が既にカリガラまで進出していると知らなかったのである。
これは16師団と35軍の連絡が不十分で、16師団の10/26発信の電報を11/3に入手しているといった状況であった。

オルモックに着いた1師団はその夜のうちに揚陸作業を進め、翌2日に敵機の空襲を受け輸送船(能登丸)1隻沈没。
しかし大部分の人員資材は既に上陸しいたので、師団全体として見ればまずまず成功であった。
これは当時、日米両軍間で航空戦が行われており、米軍もこれに忙殺され、十分な航空力を1師団の上陸破砕に適時集中指向することができなかったためである。
しかし、ここで付加説明しておかねばならないことがある。
それはマニラへの航行途中、ルソン島北部に各歩兵連隊の1個大隊を揚陸残置したことである。
したがってオルモック上陸から当分の間2個大隊であった。
しかも後述するように、この当分の間に大勢が決してしまったのである。
貴重な戦力である各歩兵連隊の1個大隊がルソン北部に残置され、重要な時期に間に合わなかったのはなぜか。
これは1師団長の独断で、レイテ島やその付近は16師団と30師団がおり、「1師団はルソン島駐留だろう」と信じ、被制空権下の航行による損害を少しでも軽減し、且つ新任務に即応しやすい態勢を早くとり得るようにという考えからであった。
ところがその2日後「決戦兵団としてレイテに上陸」の任務が初めて明示されたのである。
【戦闘経過~目標カリガラ平地~】
揚陸を終えた1師団に与えられた任務は「1師団は速やかにカリガラ付近(16師団左翼)に進出し敵の右翼に対する攻撃を準備すべし」というものであった。
捜索連隊の約200名が直ちに出発先行した。

11/2夕、1師団は4個梯団(57連隊・49連隊・1連隊・野砲兵第1連隊の順)となってカリガラ(発進点から約45km、中心部へは約50km)へ徒歩行進を開始した。
行進要領は「敵と接触の恐れが少ない場合」のそれであり、当初4列縦隊で進んだ。
勿論戦術編組はとっていなかった。
第1梯団となった57連隊は3大隊・連隊本部・2大隊・その他諸隊の順(1大隊はルソン残置)で前進した。
師団長は捜索連隊の後方をトラックで先行していた。
この任務受領に際し師団長が「カリガラに出るまでに敵に遭遇したらどうするのか」と質問したのに対して軍参謀長は「そこは考慮していない」と答えたという。
これは前述のように情報速達が十分でないため、35軍は16師団と先遣された諸隊の健闘により、カリガラ平地は完全に確保されているものと信じていたからである。
部隊がこのような行進隊形をとったのはこのためであった。
部隊はカリガラに急いだ。
道路はほぼ1車線半程度で、広いオルモック平野の東辺に沿ってだらだらした上りが真っ直ぐ北に伸びている。
11/3朝、先頭梯団の57連隊はバレンシア(発進点から約12km)に到着し、大休止の後、更に行進を続けた。
よく晴れた空に灼熱の太陽が輝き、兵は炎天下に汗を絞った。
この日初めて空襲を受けた。
数十機のP-38による対地攻撃であり、直ちに応戦、2個機関銃中隊の対空射撃により1機撃墜し、士気はかえって高揚した。
57連隊には損害はなかったが、最後尾の1野砲連隊やトラックはかなり損害を出した。
当時野砲1連隊の第10中隊長は、この空襲につきて次のように回想している。
「たしかP-38であったと思う。
行進を開始して間もなくのところで、対地攻撃を受けトラックの大半を焼かれ、兵員は私の中隊だけで20名前後やられた。
たぶん20mm機関砲の仕業と思うが、鉄帽をぶちぬかれて顔半分なくなったり、足をやられた者は片方はなくなりもう片方は半分肉がそぎ取られている。
凄惨なものであった。
今まで空中勢力は彼我伯仲と思えたが、これ以降、目に見えて敵の攻撃が増してきたように思う」
57連隊長は「正直なところ徹底した対空警戒観念に乏しかった。
組織的な対空監視哨の設置、ラッパ号令による伝達等、やらねばならぬことがあったが、私も大隊長も処置していなかった」と回顧している。

〔P-38「ライトニング」、日本軍からはペロハチやらメザシやら双胴の悪魔と呼ばれる〕

〔九二式重機関銃、日本陸軍の運用は、1個機関銃分隊に重機関銃1挺と人員10名ほどで弾薬2000発以上、弾薬分隊の補給を合わせて9000発以上と、自衛隊と比較してもかなりの火力と継戦能力がある〕
57連隊は引き続き前進を続けていた。
先行してリモン峠(発進点から約40km)に到着した時から同峠で敵の砲撃を受けていた師団長から昼過ぎ「57連隊長は歩兵砲1個小隊をもって速やかにリモンに前進せよ」という指示と共に迎えのトラックが1両やって来た。
連隊作戦主任は「確かに歩兵砲1個小隊か」と念を押したが、間違いないと言う。
直ちに大隊砲小隊長と大隊砲1門、それを操作する兵5~6名と57連隊長・連隊作戦主任・副官等が乗り込み先行した。
途中、三々五々後退して来る負傷者にであった。
41連隊の兵であり、この連隊はレイテに敵が上陸した直後、在ミンダナオ等の30師団から増援として送り込まれた連隊である。
連隊作戦主任は「これは容易ならぬ事態がカリガラ付近で起きているのではないか」と緊張と驚きに身が引き締まる思いがした。
先行した大隊砲と連隊長の一行がリモン峠に到着したのは3日午後遅くであった。
師団長はリモン峠の南側で待ちかねていた。
「私は歩兵を1個小隊、と言ったが大隊砲か?」と師団長は言う。
連隊作戦主任が「これは申し訳ないことをしました」と詫びた。
師団長にしてみれば歩兵でリモン峠を一刻も早く固めたかったのである。
それは既にマスガナス付近に敵が進出しており、この峠を突破されると1師団の任務達成は困難となるからである。
リモン峠の鞍部はひょうこう150m程度であるが、頂上からはカリガラ湾が一望でき、戦場の要所であった。
ここを敵に先取られると敵はカリガラ湾沿岸の確保を確実にし、またオルモックに上陸北進しつつある日本軍を撃破するにも極めて有利な態勢になる。
師団長は57連隊長に対し「速やかにこの稜線(リモン峠)に兵力を集結し前進中の敵を撃破すること」と命じた。
そして自ら経験した米軍砲兵の物凄さについて語り、「歩兵は昼間行動するな、対砲兵戦はするな、壕を必ず掘らせよ」と指導した後、師団主力へ向けて南下した。
現地に残った57連隊長は地形偵察を行った。
稜線の頂上は草原であるが身の丈より高い萱が生えており前方はよく見えなかった。
斜面には雨溝がありその上方は灌木が密生している。
マスナガスへ向かう北斜面はかなり急で錯雑した地形のようであり、戦車の行動は道路以外は困難と判断された。
夕闇が迫ってきたので、連隊長は地形偵察を止め、リモン部落から少し南へ下った一軒屋に入り部隊の到着を待った。

〔九二式歩兵砲、口径70mm、歩兵大隊の砲小隊で運用され大隊砲と呼ばれた。また、命中精度が低くかったことから「大体(狙った所に当たる)砲」と親しまれた〕

3日夜リモン峠を押さえていたのは独立速射砲第20大隊の60名、捜索連隊の津田隊60名、16師団の20名、1師団57連隊の大隊砲1門であった。
当時米軍はどんな状況にあったのだろうか。
1師団に最も近く進出していたのは米24師団34連隊の第3大隊であり、マスナガス(米軍はピナポアンと呼称)を越えて1.5kmの地点にいた。
これはリモン峠(米軍は首折稜線-ブレイクネックリッジ-と呼称)への登り口の僅か200m手前であり、ここで野営していた。
この方面へ進撃して来た米24師団の34連隊は上陸以来、最も激戦を経験した連隊で、死傷も多く兵は疲れており、ここら辺りで交代の必要があるため待機していた。

【戦闘経過~戦闘準備~】

11/4朝からリモン部落南方の連隊本部の位置に各大隊が逐次到着してきた。
連隊作戦主任は、部隊の掌握・区署・戦闘準備の指示等に忙殺された。
逐次到着した各部隊を連隊本部付近にとりあえず集結配置した。
しかし幸いにもこの日、米軍の圧迫は大したことなかった。
これは先頭連隊である米34連隊の主力がカポーガンからマスガナスに向かって推進されていたものと推察される。
また我が方も4日はリモン峠の要点は捜索連隊津田隊等に任せたまま57連隊は集結に1日を費やしている。
なぜ一刻も早く逐次到着する部隊をリモン峠に注ぎ込まなかったのかというと、これは猛暑と敵機の妨害により行進長経が延びてしまったためである。
こうなったのは敵情捜索の不十分なためリモン峠の北麓には既に米24師団の先頭部隊が進出しているということが判らず、緊迫感がないため依然として「敵と接触の恐れが少ない場合の行進」という気持ちが強かったからである。
当時、米第6軍司令官クルーガー中将は、5・6日は34連隊と21連隊の交代・偵察・兵站準備に費やし、7日から本格的な攻撃開始を考えていたという。
もし、この4日に米軍が有力な部隊をリモン峠に進めていたら、この要点は敵に委ねざるを得なかったかも知れない。
この日は我にとって幸運な日であり、嵐の前の静けさともいうべき1日であった。
次回
【戦闘経過~リモン峠先取~】
【戦闘経過~勝利の栄光は我が頭上に~】
お楽しみに!